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加藤尚彦・教育のCSR:コミュニティ・スクール寺小屋論
No Dropout is Possible
ひとりもおちこぼれをださない

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■コミュニティ・スクール成功の鍵は寺子屋にあり
 「では、どうすればよいのか?」私にとっても皆さんにとってもおそらく初めての話です。コミュニティ・スクール法という名前から察しがつくとおり、これは欧米の教育制度に由来するものです。この法律を導入するにあたり、文科省は欧米の教育事情を詳しく調べました。対して私は私たちの先人の教育事情寺子屋について詳しく調べました。コミュニティ・スクールを直訳すれば「地域学校」です。「地域学校」を調べるのであれば、我々の先人が築いた地域の学校:寺子屋とその仕組み・ノウハウこそ精査すべきでは、と政治家の直感でした(調査には国立国会図書館の調査員の皆さんに資料集め他多大なる協力を頂きました。改めてここで感謝の意を表したいとおもいます)。調査を進めるとともに、改めて「寺子屋」の素晴らしさ、先達の知恵に驚嘆しました。コミュニティ・スクール法の導入は、寺子屋を築いた先人の知恵を 活かして地域一丸となって我が国教育の建て直しを図る絶好の機会、との結論に至りました。

■江戸時代寺子屋の実態
 寺子屋は江戸時代を通じて15,506校が開設されています。江戸時代末期1830年天保時代から幕末慶応年間までの40年たらずに8,675校が開設され、中でも安政から慶応にかけての14年間に4,293校が開設されました。
 寺子屋では6歳から12、13歳の子どもに「読み書き算盤」を中心として、年齢別では なく子どもの習熟度による教育を施しました。授業は朝五ツ時(七時半)頃に始まり、八ツ時(午後二時半)ころに終り、昼休みを省いて6時間程度の授業でした。(ちなみに子どもが待ち遠しい「おやつ」の時間とは、寺子屋が終る時間「八ツ時」からきています)寺子屋の実際を江戸(東京)地方のデータでみると、経営者は特定の身分に限らず武士47%、平民46%、その他(僧侶、神官、医者)7%。また女性経営者も18%となっておりかなり高い。地方の場合は江戸に較べて武士の割合が減り平民、僧侶等の割合が増えています。寺子屋の規模は生徒数10名から1600名まで様々で、平均すると140名となり、全国的には平均50〜60名でした。就学率に関しては様々なデータが残っていますが大凡25%とみてよいでしょう。これは当時の欧米先進国と較べても驚異的な数字です。何故15,506校もの寺子屋がありえたのか?素朴な疑問ですが、寺子屋には様々な庶民(農工商)の子どもが通っていたが、親たちが子どもを寺子屋に通わせた最大の理由はおそらく「子どもが将来生きていくため(将来のビジネス)に必要な教育を提供していたから」に他なりません。

■ビジネススクール・ロースクールとしての寺子屋
 まず商人の場合をみてみましょう。江戸時代は全国の生産地から大坂を中継して巨大消費地江戸へと商品が流れ、江戸、大坂から全国各地に貨幣が流れるという世界でもまれに見る貨幣経済流通システムが完備されていました。このシステムが機能する上で商人は生産者や顧客、仲間との情報伝達は必要不可欠なものとなっていった。中でも書簡のやりとり、契約書の交換、為替手形や各種帳簿類への依存度は高まり「商売の家に生きるともがらは、幼稚の時より手跡、算術執り行うこと肝要」とされました。 農業にしても同じで、『百姓嚢』には「百姓といえども、今の時世にしたがい、おのおのの分限に応じ、手を習い、学問ということを人に聞きて心を正し…」とあります。『異本百姓往来』には「およそ農家に生まれた子どもは、つねづね文字の学習に心がけておかねばならない。譲証文、質入本物返、売買帳、金銀銭請取勘定、算用帳、水帳、野帳、庭帳、雑穀菜草等の送り状、仕切りの覚えなど、いつでも読めたり書けたりしておかねばいけない」とあります。また江戸時代は職人技、巧みの技も高まっていったが、職人が技を伝承するにも数値化した情報の共有が不可欠です。また職人の顧客である一般の人々も職人技の粋である製品を高く評価し、愛用し、すばらしい職人の存在を全国に知らしめる、という物心両面に渡っての職人支援態勢が形成されました。鎖国という閉じられた世界であればこその競争原理を伴った情報化社会が江戸時代において熟成していきました。
 さらには政治との関係においても、為政者は自らの職務遂行はもとより庶民への伝達例えば諸法度、御触書、御高札、さらには五人組帳前書などの法令類はいずれも文章の形でなされていました。庶民が幕府や諸藩に建言、請願、訴訟などといった形で申し出る場合にも一定の文章形式によることが求められました。寺子屋ではこうした法令類も教材として採用して、為政者も庶民が法規類を理解し遵守することを奨励し、建言請願等の催促も試みています。寺小屋とは「庶民が日常の生活において最小限度必要な知識、技術を授けるための教育機関」との定義もあります。江戸時代は21世紀から想像するよりはるかに「日常」そのものが高度に情報化され、生産者と消費者とのコミュニケーション、為政者と庶民とのコミュニケーションが「書」を通じてなされました。寺子屋で子どもたちが使っていた教材は総称して「往来もの」とよばれましたが、往来とは「往復一対の書簡」を意味します。現実に営まれている生活の中で使われているさまざまな書簡、書状さらには法令類を習得し、数値でものごとを共通認識しなければ、江戸時代において生活そのものがなりたちませんでした。その前提は庶民が「読・書・算」の能力を身に付けることであり、その根底を寺子屋が支えました。

■女学校としての寺子屋「たしなみ」・「しつけ」
マザーズ・マインド・スピリット

 江戸においては寺子屋での女児の割合も男児100に対して90にのぼっていました。女子には「たしなみ」がより求められ、寺子屋では女児には「たしなみ」を中心に教えていました。商業活動、特に小売業は女性によって担われる比重が非常に大きく、また近所付き合い、親戚縁者との交流、家計の運営、蓄財など相当大きな領域でも「おかみさん」と呼ばれる女性が実権を握っていました。まさにマザーズ・マインド・スピリットです。寺子屋では「おかみさん」候補である女児には抽象的な説教ではなく日記調、手紙調、問答調で書かれたものが多く利用されていました。商家の女として心得ておかねばならない一般常識を著わした『女商売往来』、季節の挨拶、年中行事の手引き、近所付き合いのたしなみを著わした『女庭訓往来』、さらには茶、活け花、裁縫などを「たしなみ」としての教科に組み入れる寺子屋もありました。 寺子屋は「しつけ」の学校でもありました。  江戸元禄時代の儒学者であり『養生訓』の著者貝原益軒(1630〜1714年)は子どもの教育に関する体系的な書として『和俗童子訓』を著わしました。益軒の著作は武士庶民を問わず江戸時代の人々によく読まれ、『和俗童子訓』はおそらく日本初の“子ども教育論”であり寺子屋のバイブルでした。ただ益軒が独創性をもって『和俗童子訓』で主張した訳でなく、当時の人々が漠然と思っていたことにはっきりとした言葉と理論をあたえたもので、それに人々が共感しました。  益軒によれば「しつけとは幼い子どもに生活上の習慣や社会で守るべき規範を身に付けさせること」とあります。「およそ小児は智なし、心もことばも万のふるまいも、皆かしづきしたがう者を見習い聞きならいて、かれに似する」人の善悪は生まれつきではなく、生まれた後の教育次第、見習い聞き習い模倣する過程こそ人間形成の決定的要因であり、こどもは繰り返し真似ることにより「しつけ」られます。益軒の『和俗童子訓』は「しつけ」の規範となり、子どもは大人になってから役立つ教材を易から難へ反復学習することによって「しつけ」られ学習しました。まさにマザーズ・マインド・スピリットの伝承といえるのではないでしょうか。  益軒のいう「しつけ」の原理は子どもの心や意識に訴えるものではではなく、身体を通して教える方法です。身体の規律化によって子どもの人間形成し、規律は反復によって習熟します。師匠が書いた「手本」を自らの手で繰り返し書いて模倣し、「手本」を繰り返し音読する方法を「手習い」といい、手まさしく身体で「読み書き算盤」を体得していきました。>>次へ

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